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労働の原点を取り戻す

ホワイトカラーからブルーカラーへの流行が増えそうで、自分もその流れに乗ろうとしている。

ホワイトカラーへの未練は、ほとんどない。スーツより作業着、デスクより作業現場。スーツを最後に着たのは何年前だっただろう。おそらく、もう二度とあの世界には戻れないと思う。

とはいえ、ブルーカラーを無条件に礼賛するつもりもない。ホワイトカラーから人が流れ込めば、ブルーカラーの人手不足もいずれ緩和されるかもしれない。供給が増えれば、賃金や待遇も収束していくだろう。ブルーカラーへの移動も、長期的に見れば一時的な現象なのかもしれない。

そもそも、ブルーカラーだから仕事の意味を感じられるとも限らない。細かく分業された工程の一部を、決められた速度で延々と繰り返すだけなら、そこにも虚無はある。

ホワイトカラー or ブルーカラーかではない

どうやら、この単純な二項対立だけでは、労働の問題を捉えきれないようだ。

自分は労働が嫌いだったわけではない。サラリーマンという働き方が生理的なレベルで合わなかったのだ。上司の指示、会議、根回し、評価、組織内の人間関係。自分の意思とは無関係に決められた場所と時間に拘束され、誰のためにあるのか分からない仕事を続ける。それが苦しかった。だから、労働そのものを否定するつもりはない。

記号を処理し続ける虚無

現代のホワイトカラーの多くは、文字や数字のような記号を扱っている。メール、表計算、申請書、報告書、会議資料、評価指標、システムへの入力。朝から晩まで忙しく働いているのに、退勤すると、自分が今日何をつくったのか分からない。

もちろん、記号を扱う仕事が無意味なわけではない。設計、会計、法律、物流管理、システム開発など、記号を通じて現実を動かす重要な仕事はいくらでもある。しかし、組織が巨大になり、分業が細かくなりすぎると、記号は現実を動かす手段ではなく、記号を維持すること自体が目的になっていく。

会議をするために資料をつくる。
報告するために数字を集める。
評価制度を回すために目標を設定する。
説明責任を果たすために、誰も読まない文章を書く。

そこに具体的な成果物がなく、自分の仕事が誰の役に立ったのかも分からなければ、人はやがて虚無に襲われる。

一日中忙しかった。しかし、今日、自分はいったい何を残したのだろう。
そんな疑問を抱えながら働いている都市労働者は、かなり多いのではないだろうか。

分業が奪った仕事の全体像

分業は社会を豊かにした。一人ですべてを担当するより、工程を細かく分けた方が効率も品質も上がる。大量生産や巨大組織は、分業なしには成立しない。ただし、分業が進みすぎると、働く人から仕事の全体像が失われる。

自分が処理しているのは、巨大な仕事のほんの一部分にすぎない。前の工程から何かが流れてきて、自分が加工し、次の工程へ流す。

完成品を見ることはない。
顧客の顔も見えない。
自分の仕事が最終的にどう役立ったのかも分からない。

社会全体としては効率化されても、個人から見れば、自分の行為と成果とのつながりが切れてしまう。人間は忙しさには耐えられても、意味の分からない忙しさには耐えにくいのかもしれない。

労働の原点

労働の原点は、もっと単純なものだったのではないだろうか。

壊れたものを直す。
食べ物をつくる。
家を建てる。
汚れた場所をきれいにする。
困っている人を助ける。

作業の前と後で、何が変わったのかが目に見える。依頼した人から「助かった」と言われる。自分が働いたことで、世界の一部が少しだけ良くなった。その実感こそが、労働の手応えなのだと思う。だから、大切なのは、ホワイトカラーかブルーカラーかではない。

自分の裁量で仕事の方法を考えられるか。
自分の仕事の結果が、目に見える形で残るか。
その結果が、顧客や利用者から評価されるか。

この三つの距離が近いほど、人は自分の仕事に意味を感じやすいのではないだろうか。反対に、どれほど高給で待遇が良くても、上司の指示だけで動き、成果物が見えず、顧客の顔も見えず、評価が組織内部の都合で決まるなら、虚無から逃れるのは難しい。

人間が求めているのは、楽な仕事ではない。
自分の働いた意味が見える仕事なのではないだろうか。

人生後半は、労働から逃げるのではなく、労働の主導権を自分の手に取り戻したい。
自分の仕事の跡が現実に残り、それが誰かに届く。
そんな小さく完結した労働へ、少しずつ戻っていきたいと思っている。