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虚無から抜け出すには──自分は何を遺せるか

どう生きるかより、どう死ぬか

黒澤明監督の映画『生きる』は、何度観ても考えさせられる。
末期癌で余命が長くないことを知った市役所の渡辺課長は、自分の人生を振り返り、書類に判子を押して回すばかりの日々で、「自分は何も残していない」というどうしようもない虚無に愕然とする。そして最期の仕事として、住民たちが切望した、子どもたちが遊べる公園を完成させ、静かにこの世を去る。

しかし、印象的なのはその後だ。葬儀では同僚たちが酒を飲みながら、「これからは渡辺さんのように住民のために働こう」と熱く語り合う。ところが翌日、市役所へ出勤すると、何事もなかったかのように、またいつものように、書類を機械的に回す仕事へ戻ってしまう。

結局、お役所の組織は何も変わらなかったが、この映画は、組織改革の物語ではない。一人の人間が、最後の最後に自分の人生を変えて死んでいった物語なのだ。黒澤監督は、絶望の中に一縷の希望を残してくれた。

渡辺課長は現代のサラリーマン病

現代のサラリーマン社会では、『生きる』の渡辺課長のような人は決して少なくないように思う。何年も何年も真面目に働いている。家族を養っている。社会の役にも立っている。それでも、ふと立ち止まったとき、「自分は何を残しているのだろう。」そんな猛烈な虚無に襲われる人は少なくないのではないだろうか。

その背景には、現代の労働環境もあるように思う。分業が極度に進み、自分の仕事がどこへ行き、誰の役に立ったのかが見えにくい。成果は組織に吸収され、自分は巨大な歯車の一つになってしまう。仕事そのものよりも、仕事の意味を見失いやすい時代なのだ。
黒澤明監督は80年近く前にその構造を見抜き、問題提起していた。現代でも何も変わっていない。流石の慧眼だ。

遺すという遺伝子プログラム

そもそも、人はなぜ「何かを遺したい」と思うのだろう。
生物として考えれば、その答えは比較的単純だ。「遺す」という言葉のとおり、生物が最も根源的に遺そうとするものは自分の「遺伝子」である。子や孫が元気に生きている姿を見届けて人生を終えたいという願いは、生物としてごく自然なものなのだろう。

しかし、人間は他の生物と違い、それだけでは満足しない。仕事。作品。発明。経験。あるいは、誰かの人生に残る小さな親切。有形であれ、無形であれ、人は自分ができる何かを未来へ手渡したいと願う。それは、生物としての本能というより、人間ならではの営みなのかもしれない。

人生に意味などない。そんな「虚無」の考え方にも一理あると思う。宇宙の歴史から見れば、人間一人の人生などほんの一瞬に過ぎない。それでも、人は何かを遺そうとする。人生の意味とは最初から与えられているものではなく、自分で誰かに何かを手渡したときに初めて生まれるものなのかもしれない。

渡辺課長、黒澤明監督の遺産

『生きる』の渡辺課長は、組織を変えることはできなかった。市役所は葬儀の翌日には何事もなかったように元通りになった。それでも、公園という遺産は残った。子どもたちは渡辺課長に感謝することなく、無邪気に遊び続ける。組織は変えられなくても、個人でできることはあったのだ。この事実は、私たちにとって大きな希望である。

世界を変えられなくてもいい。組織を変えられなくてもいい。多くの制約の中で自分は何を次世代に遺せるのか。その問いを持って生きることこそが、現代人が虚無から少しだけ抜け出す道なのではないだろうか。死ぬまでに何か遺せるものをつくるために生きる。『生きる』はそんなことを教えてくれた素晴らしい映画で、黒澤明監督が私たちのために遺してくれた「遺産」だ。

updated: 2026-07-27 19:02:20