page172: 中年の危機ーー世間体という他人の脚本を演じてきたツケ
「世間体」という言葉は、"respectability"という英語もあるくらいだから(日本語の意味とは少し異なるかもしれないが)、日本人だけでなく、人間社会に共通の概念なのかもしれない。
現代でも伝統的な村社会の精神性がある日本では、特に「世間体」は根強い。
「村八分」という言葉が残っているように、常に空気を敏感に読み、周りの目を注視しなければ、村の集団から追放されてしまう。外国に行った時に感じる何とも言えない開放感は、この呪縛から離れた心の悦びなのかもしれない。
世間体を完全に無視することは社会で生きる上で不可能だろう。
しかし、あまりにも強すぎると、自分軸ではなく、他人軸で生きることを強いられることになる。それは自分の人生を生きるのではなく、他人の人生を生きることになる。
子どもの頃は親の言うとおり。学校では先生の言うとおり。受験では偏差値の高い方へ。就職では世間体のいい会社へ。会社に入れば上司や組織の言うとおり。結婚し、家を買い、子どもを育てる。「普通はこうする」という「社会の標準コース」を走っているうちは、自分の哲学がなくても迷わずに済む。
ところが中年になると、この「社会の標準コース」が突然役に立たなくなる。
親は老いる。会社人生の先も見えてくる。子どもは自立していく。「出世」「年収」「マイホーム」といった、それまで与えられていた目的にも以前ほど魅力を感じなくなる。
そこで初めて、「それで、自分は本当は何がしたかったんだ?」という残酷な問いがやってくる。この現象は最近では、「中年の危機」、「ミッドライフ・クライシス」と呼ばれるようだ。
30代くらいまでは社会が用意したレールを盲目に走り続けてもいい。しかし40代、50代になるとレールの先が急に濃霧になる。そこで自分のコンパスを持っていないと、人生の迷子になる。
だから「中年の危機」というのは、肉体の老化だけが原因ではなく、他人から与えられた人生の脚本が賞味期限切れになる現象として捉えられないだろうか。
中年以降になって自分のアイデンティティがないと、いつまでも過去の栄光に執着する惨めな人生となる。⚪︎⚪︎大学のような学歴や、⚪︎⚪︎会社の元部長というような過去のラベルだけが頼りで、話す内容もいつも同じ過去のことばかりとなる。それで幸福な人生なら否定しないが、あまり幸福そうには見えない。
自分はどういう人生を生きたいか、を考えることが哲学だ。
今まで仮面を被ってきた自分を捨てると、どんな自分になるのか。
学歴も、会社名も、役職も、世間体もいったん横に置いてみる。
それでも自分がやりたいことは何なのか。
どこへ行きたいのか。
誰と過ごしたいのか。
何を大切にして生きたいのか。
こうした問いには、もう親も先生も上司も答えてくれない。
そもそも、他人に答えられるものではない。
自分と徹底的に向き合い、自分で答えを見つけるしかない。
中年の危機とは、単なる人生の不調ではなく、今まで演じてきた他人の脚本から降りて、自分の人生を自分で書き直さなければならない時期なのかもしれない。
人生の前半は、他人の脚本でも脇役としてそれなりに生きられる。
しかし、その脚本は途中でページが終わっている。
その先をどう生きるかは、もう誰も書いてくれない。
残りの人生くらい、自分で続きを書いて、自分が主役になってもいいのではないだろうか。