page176: 「活」というパッケージ商品
気がつけば、世の中にはずいぶん多くの「活」ができた。
就活、婚活、妊活、終活、そして、推し活まで。
生まれてから死ぬまで、人生の節目という節目に「活」がある。
もちろん、就職も結婚も子どもを持つことも、誰かを応援することも、死ぬ準備をすることも昔からあった。変わったのは、それらに名前がつき、ひとまとまりのパッケージ商品として売られるようになったことではないだろうか。
「活」と名付けられた瞬間、その周囲には市場ができる。そして最後には、お決まりのキャッシュポイントが用意されているのが、資本主義世界のお約束だ。
たとえば、婚活。
結婚したいという気持ちは、別に新しいものではない。しかし、それが「婚活」と名付けられると、マッチングアプリ、結婚相談所、婚活パーティー、プロフィール写真、ファッション、コンサルティングと、さまざまな商品やサービスが生まれる。
終活も同じだろう。
墓、葬儀、保険、相続、遺品整理。商品として売られているのはモノや手続きだけではない。「家族に迷惑をかけず、安心して人生を終えたい」という安心だ。人間の不安にも値札をつけることができるのだ。
そして、今もっとも象徴的なのが「推し活」なのかもしれない。
アイドル、俳優、スポーツ選手、アニメのキャラクター。
好きな対象を応援し、グッズを買い、ライブに行き、遠征し、ファンクラブに入り、ときには投げ銭をする。
本人が楽しいのであれば、それでいいと思う。
趣味なんて、他人から見ればたいてい無駄なものだ。
ただ、推し活には少し面白いところがある。
買っているのは、グッズだけではない。「推し」が成長していく物語や、夢を叶えていく過程。そして、その物語に自分も参加しているという感覚。つまり、ある意味では他人の「夢」を買っている。
「推し」が成功すれば嬉しい。「推し」が大きな舞台に立てば誇らしい。「推し」が夢を叶えれば、自分まで何かを達成したような気持ちになる。
人間には、他人の物語に自分を重ねる能力があるようだ。
映画を観て泣くのも、小説の登場人物に感情移入するのも、スポーツ観戦で興奮するのも同じだろう。
それ自体は何も悪くなく、人間らしいことだと思う。
ただし、他人の物語が自分の人生の代用品になり始めると、少し話が変わってくる。
考えてみれば、他人の夢を見るのは楽だ。自分で何かを始めれば、失敗するかもしれないし、恥をかくかもしれないし、全財産を失うかもしれない。そこまでしても、誰にも評価されないかもしれない。
自分にはたいした才能がないという、あまり見たくない現実を突きつけられるかもしれない。しかし、誰かを応援するだけなら安全だ。観客席からなら、いくらでも夢を見ることができる。
資本主義はそこにもちゃんと商品を用意してくれる。
「あなた自身が主人公にならなくてもいいですよ。こちらの主人公を応援してみませんか」
と胴元は実に親切だ。
もちろん、有料なのは言うまでもない。
グッズ。限定商品。ライブ。遠征。投げ銭。人生の主役を降りても、観客席のチケットだけは売ってくれる。なかなかよくできた仕組みだと思う。
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お受験という「元祖・推し活」
そして、この構造は「○活」だけの話でもない。
推しの元祖とも言えるのが、お受験だ。
親が子どもの受験に熱中し、有名校への合格を自分のことのように喜ぶ。
もちろん、子どもの将来を思ってのことだろう。
しかし、その中には推し活と似ているものが混ざっているように見えることがある。
自分では叶えられなかった夢を、子どもを通してもう一度やり直そうとする。
子どもが有名校に合格したところで、親の履歴書が有名校に書き換わるわけではない。
それでも、本人にとっては何かを達成したような気持ちになる。
推し活とお受験は一見違うものに見える。
しかし、「自分の夢を他人に託す」という一点では、案外よく似ているのかもしれない。
他人の夢に乗り、他人の成功に一喜一憂することもできる。
他人の物語に参加している気分になることもできる。
でも、どこまで行っても、それは他人の人生だ。
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「推し」が武道館に立っても、自分の経歴には一行も増えない。
子どもが有名校に合格しても、自分の人生を代わりに生きてくれるわけではない。
他人の成功をどれほど自分のことのように喜んでも、自分自身が何かを成し遂げたことにはならない。
極めて、当たり前の話だが、人間はこの当たり前をときどき忘れるようだ。
他人の人生を見ている間は、自分の惨めな人生を見なくて済むからだ。
だったら、たまには自分の夢も買ってみてもいいのではないか。
いや、自分の夢くらいは、できれば既製品を買わずに自分で作った方がいい。
「推し」に三万円使うなら、自分にも三万円使ってみる。
「推し」が新しい挑戦をするたびに応援するなら、自分も何か一つ始めてみる。
「推し」の成長記録を追いかけるように、自分自身の変化も追いかけてみる。
他人の物語を消費するだけではなく、自分の物語を少しずつ作っていく。
考えてみれば、自分ほど長く付き合う相手はいない。
生まれてから死ぬまで、ずっと一緒にいる。
嫌になったところで、基本的には降りることもできない。
だったら、もっと自分を推してもいいのではないか。
観客席は居心地がいい。
失敗もしないし、責任もない。拍手だけしていればいい。
しかし、自分の人生は観客席からは進まない。
自分の人生の脚本は、自分で書くしかない。
そして、その物語の主人公は自分だ。
他人の夢を金で買うことはできるが、自分の人生を代わりに生きてもらうことはできない。